「幸せ」とは何か?海外生活は日本にいた時以上に日常生活からの学びが多い
いつもこのコラムを毎週書くにあたって、始まり方と終わり方だけ決めて、その着地点に向かって遠回りしたり直進したりしながら書いている。だから内容が毎週の自分の気持ちや体のコンディションによって変わってくる。
コラムが掲載されるのは、実際に書いてから2週間程後になるので、毎週水曜日に掲載されるコラムを読んでその時にどんな気持ちでコラムを書いていたかとか、この言い方を思いついた時にはこんな意味を込めて書いたとか、そんなことを思い出しながら読んでいる。
毎週自分の言葉で一つのトピックについて、6,000字前後で自分に向き合って書くということは貴重な経験だと思う。不思議なもので、そのトピックについて書けるか確信がなくても、最初にトピックを書いてしまったらもう心がそこに向かうのだ。そして、気がつくと全て書き終えていたりする。
生まれ育った環境とは違うところで、好きなことをしながらそれについて学ぶ。そんな体験は今しか出来ないだろうと思っている。
だからこのコラムを書く時は、その自分にしか伝えられないストーリーを伝えさせてもらおうという気持ちで書かせてもらっている。そして、「自分の気持ちを活字にする。」という行為はセラピーのような効果があると確信している。
毎週これを書くことで、自分の気持ちを思い出すことができるし、その気持ちや感情の動きをシェアすることができる。こんなことができる環境はすごく恵まれていると思うから、「適当にこなす」ことがないようにとも思っている。
記事冒頭でなぜこんな書き出しだったかというと、今週は何か一つの出来事や場所についてではなく、「幸せ」ってなんだろうと考えることが多い週だったから。
ここに来てから、日本にいた時以上に周りに目を向けるようになったし、「今自分に何が必要か」というのを考えることが増えたから。そういったアメリカ体験を通して感じたことを書く人はあまりいなかったから、書かせてもらおうと思った。
そして、ここで出会った人達から、幸せについて考えさせられることも沢山あった。
今から確信しているのは、2週間後にこれを読んだ時には、「はすに構えてるなぁ…。」とこそばゆくなるということだ。
マルチな才能を持つダンサーのL先輩
これ毎週読んでくれている人たちの中には、自分は友達がいなくて先輩しか会ってくれる人がいないんじゃないか、と思っている人もいると思う。そう思われても仕方がないだろう。ほぼ毎週「先輩」の話をしているし、ものすごくお世話になっている。だけど、今週はいつも出てくる先輩じゃなくて、また別の先輩の話である。ややこしいからここではLさんと呼ぶことにしよう。
彼は少し前までバチバチのプロダンサーとして活躍していた人で、20代後半のアメリカ人の男性。もちろんクラスを教えていたりして、有名ダンサーのアシスタントをしていたこともある。とにかく凄いキャリアを持ったダンサーである。
それだけでも凄く尊敬できるけれど、彼はとにかく人がいい。例えば、1つのことについて質問をしたら、10倍の濃さで答えてくれるような人だ。彼とは幸運なことに毎週会う機会があるから、ダンスのことについてアドバイスを聞いたり、ロサンゼルスでの人間関係についてなどを聞かせてもらったりしている。
毎週彼に会うのが楽しみで、もはや先生のような存在だ。そんな彼がやることは、ダンスだけではない。彼は「多才」を体現したような人で、税理士であり、ファッションブランドのバイヤーであり、スケーターであり、マーケティングダイレクターであり、ステージダイレクターでもある。
だから、「これやったことある?」なんて聞くと、大体答えは「Yes」だ。流石に近くにあったルービックキューブを手に取って、一瞬で全面揃えた時には驚いた。もうこの人に出来ないことは多分ないし、きっと前世の時点でかなりの人だったんだろう、とかすら思い始めている。
そんなに沢山のことをしていて、しかもそれぞれが仕事になるくらいレベルが高い。そんな人に今まで出会ったこともないし、聞いたこともない。
では、「なんでそんなことができるのか?」そんな質問をしたら面白い答えが返ってきた。
それを聞いて、なるほどと思った。この考え方って、日本とアメリカのものへの向き合い方への違いが文化的に関係していると思う。すごくわかりやすい例を挙げると、日本で学生の時に、部活動を経験した人が殆どだろう。大体の人が1年生から3年生の引退まで、1つの競技を継続するのが普通だ。
2年生で部を変更することはあまりないし、もし部活を引退前に辞めるとでもなれば、「西山、部活辞めるってよ!」と噂にもなってしまう。
それぐらい1つの競技に3年間、あるいは6年かそれ以上の長い間向き合い続けるのが日本の常識である。そして長くやっていた方が凄くて、辞めたり、変えたりすることは良くないこととされているところがある。
だからよく何かの募集要項に、「〇〇歴2年以上」というのが必須で書かれていたりする。例え経験歴1年の人が、経験歴2年の人より能力があったとしても、前者の人は技術を見てもらうことはおろか応募すら出来ないのだ。
では、アメリカはどうだろう。まず部活動では、夏と冬によってスポーツが変わる。夏から秋にフットボールをやっていた人達は、冬になるとバスケットボールをやったり、夏はスポーツをやっていなかった人達が冬だけチアリーダーになったり、バレーボールをやったりする。
だから1年中同じスポーツをやっている人は少数派で、そういう人達は大体学校外のスポーツクラブで活動している。
沢山のことを経験する環境があるのは凄くいいことだと思うし、確かに10代前半でこれから3年間続けることを決めるのって簡単なことではない。
学校って、「何か一つのことをやり遂げる。」練習をする場所でもあるけれど、「自分にあったものを探す。」練習の場所でもあると思う。
日本とアメリカ、どちらも違った教育の方針があるだろうし、どちらも長所と短所がある。
自分は柔道を嫌々ながらも7年間続けていたおかげで、諦めないで目標を達成することの大切さ、それをやることでかつてなかった自信が身についたと思う。
だけど、何か1つのことに一筋になり過ぎて、物事の視野が狭くなってしまう弊害もあるから、そういうアメリカ式の教育を受けていたらまた違っていたのかもな、とも思う。
だからアメリカで会った人は、不思議と器用な人が多いように感じるし、視野が広いからかどんな話題でも割と詳しかったりする人も多い。
そんな環境で学んだ自分だったから、Lさんの言葉にははっとした。そうか、そういう生き方もあっていいのか。向き合うことが、1つだからいいとは限らない。やっていることそれぞれが、それぞれの形で人生を良くするように。
一つひとつに本気で、それぞれを繋げて考えられる視野の広さを持ったLさんだから、今のキャリアがあるんだなと思った。
最近一緒にいる時間が増えて、彼に似てきたと言われるのも時間の問題だろう。
世界一有名なナルシスト
誰もが自分自身のことをいくらか好きで、いくらか嫌いだろう。それはごく自然なことで、どちらもある程度必要なことである。でも最近よく思うのが、自分を好きと嫌いの割合が7:3ぐらいの方が、自分は幸せになれるんじゃないかということ。
5:5でバランスよく自分を好き、嫌いになることが出来ない性格らしく、多分4:6で嫌いが勝つことが殆どだ。「あぁ、今みたいなことやっちゃう自分、好きじゃないな。」みたいに、ずるずる反省が続いて結局考え過ぎなのはわかっているけど、自分が嫌になってしまう。
自分のカウンセリングのために記事を書いている訳ではもちろんない。だけど、そんな自分がある種の親近感を抱く、世界一のナルシストがいる。
それは、カニエ・ウェストだ。
もちろん、凄く有名だけど知らない人のために説明しておくと、カニエはアメリカ、シカゴ出身のラッパー、音楽プロデューサー、ファッションデザイナーである。音楽好き以外の人達の彼への印象と言えば、アワードショーでスピーチ中のテイラースウィフトからマイクを奪った人、ドナルドトランプを支持している変わり者の黒人、YEEZYの靴の人、奴隷制は選択だった、とか訳のわからないことを言ってた人、とかいったものだろう。
恐ろしいのが、これらはどれも噂ではなく本当にあったことなのだ。時には、状況的に同志であってもいいはずのトランプ支持派を敵に回し、挙句の果てには今まで彼をサポートしてきた黒人のコミュニティーからすら叩かれてきた。そしてオバマ前大統領には、「馬鹿者」とまで言われた。
そんなアメリカを10年以上騒がせ続けている彼が、なぜ未だに音楽を続けていて、その曲どれもが軒並みヒットするのか。なぜ人々が彼の音楽を未だに欲しているのか。
その答えは簡単で、彼が純粋に音楽の天才だから。
こればかりは自分で聴いてもらうしか理解してもらう方法はないのだが、彼の作品がどれだけ評価されているかは、2010年代のベストアルバム、と言った類の記事を読んでもらえば彼の名前はどの記事でも上位にあるから分かるだろう。
ここまでの情報で、きっと彼のポジティブとネガティブな面が4:6で、ネガティブが勝っているだろう。そして、ここからは完全に自分の予想だけれど、きっと本人も4:6で自分のことを嫌いだと思うことが勝つと思う。彼の作品は時に、悲しみと絶望に溢れている。どこまでも暗くて、夜は明けないんじゃないかとすら思ってしまう。
彼の曲を聴くと、「カニエですらそうなのか…。」と不思議な親近感を覚えてしまう。そんな気持ちを抱いたのは、きっと自分だけじゃないだろう。一人の人間としての弱さを、過去のものではなく、あくまで現在進行形で作品を通して伝えてくれる。
まずそんな赤裸々なアーティストが、日本のメジャーシーンでいるのか?少なくとも自分は知らない。
EXILEや嵐が、彼らの弱さを歌詞にして紅白で歌っている姿は想像が出来ない。「どれだけかっこいいか。」というのはもちろんだけど、その上に「どれだけリアルか。」が評価されるのが今のアメリカの音楽シーンのように感じる。
だからコンプトンから出てきた出自をアートにした2パック、さらに彼を追って夢を叶えた後の悩みや自らを取り巻く人々をアートにしたケンドリックラマー、黒人女性として生きるということを歌ったビヨンセ、ノーネーム、10代として今を生きる自らの闇や弱さを、強さや個性として見せたビリーアイリッシュなどなど、例を挙げると本当にキリがない。
同じく自分の弱さを見せていくスタイルでもあるカニエ・ウェストが、彼らと大きく違うのが、多くのアーティストは「何かを乗り越えた自分」として、起こった出来事や状況を自分なりに乗り越え、解釈をしてから曲やアートに昇華させている。
だけど、カニエは「まだ答えを見つけていない自分」として、闇の中をさまよっていながらにして曲にしてしまうのだ。
「自分は今までこんなだったけど、今はこんな答えを見つけたんだ!」ではなく、「俺は今こんなで、何でこうなのかすらわからない。なんでだろう。」といった具合なのだ。彼の”My Beautiful Dark Twisted Fantasy”や”ye”というアルバムがいい例だろう。
じゃあ、彼は常にネガティブだったかというと、そういう訳ではない。彼は時に異常なまでに自分が好きなのだ。若い時から彼は自分の才能を自覚して、「”She got a light-skinned friend look like Michael Jackson. Got a dark-skinned friend look like Michael Jackson. (彼女はマイケルみたいな明るい色の肌をしていて、マイケルみたいな黒い肌の友達を持っている。)”という歌詞を書いた時、俺は絶対成功すると思ったよ。」と自信満々に語っている。
歌詞の中でも、「俺たちは新しいジャクソンズだ。(マイケルジャクソンのファミリーを成功している家族として)」だとか、「YEEZY, アルバムなんか出さなくたって、靴はプラチナムヒットだ。」とかのナルシストな歌詞は当たり前だし、極め付けには”I Love Kanye”というフリースタイル曲を作るほどである。
曲の最後は、「And I love you like Kanye loves Kanye.(カニエが好きなカニエみたいなあなたが好き。)」というナルシストにも程があるラインとなっている。カニエはきっと本気で自分が神と並ぶ存在だと思っていた(思っている?)し、その彼の一面はすぐに変わることはないだろう。
だが彼はそんな一面を持つと同時に、双極性障害を患っていることもカミングアウトしている。”The Life of Pablo”を引っ提げたツアーを中断して、一時期入院もしていた。リハビリを経てリリースされた復帰作、”ye”というアルバムのカバーには「双極性障害でいることは嫌いだけど、最高だ。」と彼が携帯で撮った山の写真の真ん中に打たれている。
自分の個人的な解釈では、この時、彼は初めて自分を本当の意味で好きになったんだと思っている。今までは、「成功している自分」への愛は並外れていた。だがコントロールが効かない、「墜ちた自分」に対しては憎しみや嫌悪が並外れて強かったのではと考察している。
それがようやく、自分の障害を受け入れて全て含めて自分なんだ、という自分への向き合い方を見つけ出したのだと思っている。それからは曲の中でも彼の家族や妻など、周りに対してのリリックも増えてきたように思える。
その後も相変わらずカニエはカニエだが、弱さと強さを同時に誰よりも世の中にアウトプットしている姿を見ていると、彼の人としての成長をこちらも知ることができるし、こちらも一緒に成長できていける気がする。
彼がありのままの自分を受け入れることで、彼の幸せを手に入れる姿をリアルタイムで作品を通してフォローすることができたのは、この時代に生まれた自分達の特権だろう。
幸せを感じるも感じないも自分次第
幸せとは何か、このコラムを書き終わった今でもまだひとつの答えは出ていない。だけど沢山の人の、様々な形の幸せに出会えたことは凄く幸せだ。
今日ダンススタジオからの帰りに乗ったUberで相乗りしていた女の人がいい人だったし、なんならUberが来るまでの間初対面なのに一緒に待ってくれた彼も優しかった。それらは揺るぎない幸せだ。
だけどきっと、この小さい出来事を幸せだとも思わない人もいるだろう。
だとしたら、もしかしたら幸せは自分次第なのかもしれない。
これは沢山の今まで出会ったことのない人達と触れ合った後に気がついたことなのだが、自分の受け取り方次第で、幸せは無限なのかも知れない。
「だったらスポンジ・ボブみたいに生きた方が断然いいよな。」なんて思いながら、今日はスポンジ・ボブを見てから寝ようと決めた1日だった。